文献 「金津 ふる里の手帖」1994 金津町 

1. 金津町の地名について

2.金津町の古代製鉄所跡

3.金津町の古代製鉄と継体天皇時代の 

金津①  金津の(町並みの)形成について   

 金津の地名が歴史書に出るのは奈良の大乗院文書で、永仁六年十二月六日(鎌倉時代後期1298年)にヽ「春日社金津御着」とあり、太平記にも「足利直義金津城を築く」と書いてある。

金津町の地名について 上古時代の金津

 金津町の「金津」という地名は、明治十八年に内務省が編さんした地名索引によると、全国唯一つ。、ふる里金津は北陸街道の宿場で、竹田川水運の中心地で、江戸時代から馬と舟で大いに栄え、明治以後、鉄道と自動車の時代になると工場を誘致して栄えている。

 金津には、地名の成立する以前から人が住んでいました。その遺跡の最も古いのは、八日区の大鳥神社横の貝塚です。その頃はまだ農業のなかった時代で、人々は自然の貝や木の実を食べて生活し、貝殻を捨てたところです。この貝塚は西暦前、七、八千年の縄文時代の後期にあたり、海岸がこの近くまで迫っていた頃でした。

 縄文時代の次の六百年間が弥生時代で、その弥生時代の中頃に西洋紀元が始まり、日本国も建国されたと考えられる。弥生時代の次が古墳時代で金津小学校の裏山に、古墳時代後期の稲荷山古墳群があった。今は唯一基だけ残っている。古墳時代は前傍二百年間で六世紀まで。

金津町発祥の地

大鳥神社の社前に千年もたったかと思われる大銀杏があって町の天然記念物に指定。大鳥神社は、明治維新以前は昆沙門堂といって、商売繁昌の神様が祀ってあった(提灯は百足模様。この辺りは鎌倉時代の正和四年頃既に町並みもできていたし、都へ通ずる北陸街道もあり、江戸時代に八日町場が開かれた。

 

金津②  21世紀に伝えよう、たたらの火

古代製鉄跡の話

 古代製鉄の跡が細呂木駅周辺に発見された。これを契機に、製鉄跡の証拠と考えられる鉄滓が坂井北部丘陵一帯に発見されるようになり、東は笹岡、西は北潟湖周辺にまで及んでいる。同時に炭窯も発見され、製鉄操業が証明されている。同時に、須恵器窯跡が見られることもあり、古代の高温技術が確認される。また、この製鉄遺跡は、加賀の方でも広く発見されている。

福井地震前まで金津新町と、八日町の白山神社の境内に、金山神社があった。そして刀工金津権蔵の子孫の隠居氏、馬の面作りの馬面氏、金津名産の鋏と毛抜きを製造したおけぬきや(遠藤所平氏)などの子孫が今もいる。

古代に大陸から伝わったとされる製鉄技術の簡易な炉による再現の試みは、吉川充雄氏が起こした加越たたら研究会により、1991年(平成三年)の竹田川原を最初に今日まで継続され、また、古代鉄の鍛造と鋳造の研究が続けられる。

「 21世紀に伝えよう、たたらの火 」

























金津地名の由来

金津というのは「鉄を積み出す川港」ということ。入江・津・湊。古代人にとって鉄は鍬・石響・剣などを造るための重要な産物です。その鉄が金津地方に生産されて竹田川の港から送り出されたので、金津という地名が生れた。そこで古代製鉄の窯跡を、植林する人や山芋を掘る人の協力をいて探したところ、細呂木駅を中心とする半径三キロ内の山々に、鉄滓の散在九ヵ所、製鉄炉跡十三ヵ所、炭窯四つなどが発見され、金津町中央公民館前には、粗鉄を精製した鍛治場跡があり、竹田川底から拾い上げた鉄塊もとどけられました。これらの標本を新日鉄株式会社の試験場で分析し、木炭を日本アイソトープ協会へ送って年代測定をしてもらった結果、 製鉄原料は川尻の浜砂鉄で、六世紀初めから八世紀初め頃とわかった。鉄一トンを造るのに木炭四千貫も入川だといいますから、古代の製鉄民の集団が、製鉄をして、木炭材がなくなると次へ移動して行った思います。

 金津の地名が歴史書に出るのは奈良の大乗院文書で、永仁六年十二月六日(鎌倉時代後期1298年)にヽ「春日社金津御義金津城を築く」と書いてある。

金津は鉄の川港

「金津」という地名は古く「鉄を集散する川港」と言う意味です。その意味を裏づけるように馬場の斉藤憲さんが、竹田川の川底から拾い上げた粗鉄の塊を持って来た。この鉄の塊は舟で運ぶとき川へ落したものと思う。また中央公民館の前の松の切り株の所に、大きな鉱滓があった。九州の新日鉄㈱で調べてもらった結果、これは「粗鉄をフイゴで再製したときの鉱滓で、わりあい新しい時代の物」とわかりました。ひょっとこ→火男。 福井地震前まで金津新町と、八日町の白山神社の境内に、金山神社があった。そして刀工金津権蔵の子孫の隠居氏、馬の面作りの馬面氏、(遠藤所平氏)などの子孫が今もおります。

原料は山砂鉄・町内の製鉄所跡

金津の山砂には砂鉄分か多く山室・高塚附近では二〇から三〇パーセント、細呂木駅附近では20から30パーセントの所もあります。笹岡の丸子栄さんは熊坂の金山・笹岡の向山・山室と菅野境のも沢の亀山・牛ノ谷駅前の山見つけた。

 そのほか山十楽の横峰、滝の幸ノ須山、芦原町赤尾の谷など一六ヵ所に製鉄炉跡がありました。中には柿原の杉釜のように須恵器の窯で粗鉄をつくったらしい所もあり、通称カナクソ谷という所にはたいがい製鉄所跡があります。

 これらの山出しの粗鉄は、細呂木小学校や細呂木駅前の幸ノ須山に特設した再製炉で、よい鉄に仕上げたものと考えられま横断面が四基も残っています。

 
また細呂木駅前の製鉄炉は昭和四十七年ごろ県の文化課が発掘し煙出し付きで横穴と竪穴炉を組合せた収良窯であることがわかった。これらには木炭が残っていたので、その年代を調べてもらったところ 小学校の窯跡は古墳時代の後期、駅前の窯跡は紀元七世紀の初め(聖徳太子の頃)のものとわかりました。

古代製鉄と木炭

古代の製鉄には砂鉄一、〇〇〇貫三、七五〇キログラム)に木炭四、〇〇〇貫(フ五ドン)も使ったそうですから、金津の山々はこの製鉄のため丸なだかとなったので、製鉄師は他所へ移住したと考えられる。

 金津町の古代製鉄所跡が多数発見されたように、北陸、山陰、中国、関東の各地でもたたら跡が、続々発見されて、製鉄集団の人々の移動や古代製鉄の技術もだんだんわかってきた。また鉄の生産と共に、狩りや稲作、古墳造りなど、金津地方の古代人の生活が鉄の使用によって進んでいったこともわかるようになった。

古代製鉄と木炭

古代の製鉄には砂鉄一、〇〇〇貫三、七五〇キログラム)に木炭四、〇〇〇貫(フ五ドン)も使ったそうですから、金津の山々はこの製鉄のため丸はだかとなったので、製鉄師は他所へ移住したと考えられます。

 金津町の古代製鉄所跡が多数発見されたように、北陸、山陰、中国、関東の各地でもたたら跡が、続々発見されて、製鉄集団の人々の移動や古代製鉄の技術もだんだんわかってきた。また鉄の生産と共に、狩りや稲作、古墳造りなど、金津地方の古代人の生活が鉄の使用によって進んでいったこともわかるようになりました。

古代人製鉄炉の跡

金津町には今から1300から1400年前の製鉄炉の跡が沢山あります。例えば今 笹岡の向山で発掘調査中のたたら跡、熊坂、細呂木小学校裏、山十楽、牛ノ谷、山室、滝、青ノ木などの山々にある。その製鉄炉跡に散在する鉄滓を分析してみると、酸化チタンが多く含まれているので、製鉄の原料は砂鉄だということになりました(新日鉄研究所)。そこで「砂鉄からどうして鉄を造り出したか」ということになって、その実験を名古屋の大同工業大学の横井時秀教授にお願いして、平成三年の夏、金津夏まつりの時に、町内外の人に見てもらった。

小型簡易製鉄炉で実験に成功

横井先生は、日本で始めて簡易製鉄炉(外径三〇センチメートル、内径二〇センチメートル、高さ109センチメートル)を使って、砂鉄から直接に製鋼する実験に成功され、金津での実験は第十七回目。学生を指導して、炉の上部の温度約五〇〇度、下部は1500度のとき、その上から木炭をつぎ足して、約三分ごとに砂鉄と石灰石の粒を少しずつ入れて熱で溶かし、約三時間後に炉の下部から真っ赤な「鉄滓」を流出しました。そして炉が冷えてから炉底にたまった鋼を取り出した。金津での製鉄実験も成功して、新聞やテレビは全国的に報道した。またその鋼を使って武生市工業試験所の方々が鍛治の仕事をして見学者を喜ばせた。

金津町の古代製鉄と継体天皇時代の越前

越前王権の成立と鉄

26代継体天皇(日本書紀では450年から531年)は西暦五〇〇年ころまで越前におられて、治水の事業を起こし、住民の農工業を盛んにした。しかしそのころは伝説でいうような、一面の沼地ではなかった。この平野の方々に村々があって米を生産し、川舟が上流まで通っていたことは、長屋、桑原、伊井、加戸などの古代人の住居跡の発掘調査でも明らかになりました。越前王権の成立は、その頃越前に鉄と米と三国の塩があったからで、矢地の熊谷古墳からは1.2メートルの王様のもつ直刀が出土し、清王の古墳からは馬の轡が出ました。そのほか玉造り工房跡、銅鐸の鋳型、稲刈り鎌などが出土しています。これら鉄製品から見て、そのころから金津の山に古代製鉄炉があり、三国港を通じて大陸との文化の交流も行なわれて、継休天皇の時代には越前にも有力な王権一族があった。

 大和朝廷では二五代武烈天皇の御跡継ぎがなかったので、大伴金村らが越前坂中井(坂井郡)へ継体天皇をお迎えに来ました。そして、大阪府下の樟葉の宮で御即位になり、二〇年ほどたってから大和へお入りになりました。