鯨塚

 浜坂の305号線を吉崎に向かって進むと、開田橋の手前で左へ折れる小さな路地がある。その路地を入ると民家や船着場が立ち並び、まもなく松林の中に入って行く。その辺りから舗装はなくなり、大きな松の根の張る砂の道となっている。
松林は美しく気持ちの良いところであるが、かって浜坂海水浴場が盛んであった頃のものだろうか、バンガローの残骸が転々と放置してある。見苦しいので何とかならないものかと思いつつもう少し先へ進む。
305号線から約900mほど進んだところで、左手、そこは浅い谷間になっていて、松の若木が群生している。その辺りの草木をより分けてゆるやかな坂を100mほど登ると、右側の松の木陰から小さな墓石らしいものが見えてくる。鯨塚の碑である。やっと見つけたという思いである。
江戸時代、この辺りには船着場や番所があって、この坂道を「ごまん坂」と呼んでいた。コナゴを運ぶと一荷ごとに5文の駄賃をもらったことから「5文坂」といい、それがなまって「ごまん坂」といわれるようになったと伝えられている。
芦原町の教育委員会が郷土カルタを作るために、平成9年6月、編集委員がこの碑の調査に出かけた。しかし、草木の茂る夏場であったので見通しが悪く、碑だと思って近づくと松の切り株だったりして、地元の人に案内してもらったが見つけるまでに半日もかかってしまったという。そこで、郷土カルタの鯨塚の読み句は「草と木につつまれて在る鯨塚」である。よほど生い茂る草木に邪魔されて難儀したのだろう。
私は11月の晴れた日に見学に行った。11月ともなると草や蔦は枯れて松林の中は遠くまで見通せる。だからかなり短時間に見つけることができた。
碑の見学に行く時、近くで野良仕事をしている2、3人の人に碑のあり場所を尋ねてみた。しかし、ある人は浜の方にあるといい、ある人はゴルフ場のコースの中に移されていると言って定かでない。碑があることは知っているが建っている場所までは関心がないのだろう。碑は草木に埋もれて人知れずひっそりと建っているので、すっかり忘れられているのだろうか。
しかし、浜坂の牧田栄蔵区長は、この碑を祀る小さな祠を建て、参道を整備して多くの区民がお参りできるようにしたいと言っていた。この碑が建っている山は小九朗といい照順寺の持ち山である。そこで、区長はこのことをお寺にお願いしたが「人が集まると空き缶やゴミを捨て山を荒らすことになる。」という理由で断られてしまったという。しかし、村を救ってくれた鯨の供養のためにあきらめずに何度もお願いするつもりだと、区長の思いは固いようであった。
さて当時(文化9年1812年頃)浜坂は、約170戸700人の大きな漁村であった。そして、男達は海で漁をし、女、年寄りは田畑を耕して家庭を守る平和な村であった。しかしそんな時、天候不順で不漁や凶作が相次ぎ、平和な村は苦しい生活に一変した。
芦原町史によると、鯨塚建立の前年の文化8年に一揆と思われる事件が発生している。
文化8年12月24日の晩、常名家(屋号は出店)へ浜坂の浦人(村人のこと)100人ばかりがやってきて金銭を要求した。常名家は金子15両と銀子65匁を渡したので、浦人は翌2月期限の借金証文を作成した。しかし金銭は返済されず事実上借りっ放しであった。この事件は常名家の柔軟な対応で荒ら立たずにすんだが、これは一種の一揆である。というのがその概略である。以上の記録でもわかるように浜坂は大変な困窮に喘いでいた。
そんな時、一頭の大鯨が浜坂の海に迷い込んできたのである。浦人は狂喜してその鯨を捕獲して食料とした。そして、その大鯨一頭のおかげで浦人は10日も飢えをしのいだと伝えられている。
鯨は古くは勇魚ともいわれていた。勇ましくたけき魚という意味である。そして、その勇魚が一頭捕れれば7浦(漁村)が潤うといわれていた。したがって、古来、人々は鯨を「福を呼ぶ神様」として信仰したり、捕鯨地に供養塔を建てたりして鯨に特別な思いを寄せていた。
県内には浜坂の他に、小浜線の本郷駅と和田駅の中程の青戸入江に面して鯨の供養塚が立っている。大正7年、飛島組工夫によって鯨が捕獲され、飛島組によって建てられたものである。
雄島の伝説に「雄島の神様が雄島に来るとき、波に乗せてくれと頼んだが断られたので、鯨に乗せてもらって雄島にやって来た。」という言い伝えがある。また、波松では、今でも結婚式には必ず鯨汁が振る舞われる。鯨汁がないと結婚式が成立しないということである。鯨の供養塚は日本海側には珍しいといわれているが、こうしてみると、県内郡内でも結構、鯨との結びつきは深いようである。  (市村記)